ウィスコンシン州エルズワースの高校で競技ゴルファーとしてJPはゴルフの経歴をスタートさせます。 2000年、高校の州選手権での勝利に貢献。2001年には個人準優勝の成績を納めています。2004年、JPはアリゾナ州立大学のProfessional Golf Management programに参加し、2008年に卒業しました。在学中、JPは地元企業のHot Stix Golfでインターンを始め、マスタービルダーとなったのち、アリゾナ州スコッツデールの近くのCool Clubsでウェッジとパターのカスタムに専念します。
彼が芸術的創造性を探求し始めたのはCool Clubsでした。アリゾナで過ごした時間は、彼のゴルフ人生に素晴らしい機会とインスピレーションを与えてくれたのでした。
2006年、JPはPGAツアー プロのアーロン・バデリーに協力し、MacGregorのアイアンセットを削ります。そのアイアンのヒールとトウには、肉厚過ぎる部分がありました。 バデリーと一緒に試行錯誤を繰り返し、3番,6番,9番アイアンで自分たちが求めていたものに到達しました。 バデリーはそれらを使って練習したところ、とても気に入りました。そこで、JPはその夜にすべてのアイアンを削りました。サウス・カロライナ州ヒルトンヘッドで翌週に開催される2006年ベライゾン・ヘリテージで戦うために、バデリーはJPが削ったアイアンを数日間だけ練習しました。そして、彼は初めてPGAツアーで勝利しました。新しいアイアンがバッグに収まった最初の週に、バデリーは最初の勝利を掴み取ったのです。
その結果、マクレガーの伝説的なクラブグラインダー、ドン・ホワイトが、JPとバデリーが作りあげたスタイルのアイアンを特注で研磨してくれることになったのです。その見返りとして、JPはメジャー大会で何度も優勝し、多くの殿堂入りプレーヤーや、PGAツアープレーヤーと仕事をしてきた巨匠ドンから学ぶ機会を得ます。ドンはJPに研磨、バウンス、刻印に関する彼の哲学のいくつかを伝えました。この出会いがJPの土台となり、現在も彼の作るゴルフクラブに影響を与え続けています。
2009年春、JPは自分のブランドを立ち上げるという夢を追い求め、中西部に戻ってきました。融資を受け、必要な研削盤を購入した後、父親の物置の一角に工房を構えます。しかしウィスコンシン州の冬は厳しく、JPは工房を暖房の効いた母親のガレージに移しました。彼は、カスタムウェッジの注文を受けながら、将来独立するJPのウェッジラインをデザインし、技術を磨いていきます。カスタムウェッジの注文は、すべてが経験でした。この経験が、JPの「学び、応用する」姿勢を確固たるものにし、ウェッジ作りの常識がどんどん刷新されていくことを体感していきます。
2011年、JPは「JP by Edel」ウェッジのデザインに携わり、その年のPGAマーチャンダイズショーで発表されました。残念ながらこのラインは発売されませんでしたが、デザイン哲学は彼の中で引き継がれ、彼のウェッジへの思いと信念がさらに強くなりました。
この時期マイク・アダムスやスタン・アトレイ、ジェリー・キングなど有名講師が主宰するゴルフクリニックが流行っていました。また、GolfWRX、MyGolfSpy、Independent Golf Reviewsなどで取り上げられ、クチコミの広がりもあり、JPのブランドが支持され始めた時期でもありました。彼の製品哲学の礎は、家族、友人、そして多くの人たちに支えられることで築かれました。これらの支持者がなければ今のJPゴルフへの成長は不可能だったでしょう。